ジャン バオホワ
張 宝華
張宝華

劇団芸術監督。新潮劇院主宰・張春祥の父。

1930年9月、北京郊外(現在の通県)生まれ
中国国家一級芸術家
もと鳴華京劇団団長、北京風雷京劇団団長、北京戯曲学校教授。

張宝華張宝華の父・張起は17才の時、“梆子梅蘭芳”と謳われた名女形・崔霊芝に付いて北京へ上京。
算術が得意であった張起は、次第に崔の信任を得てマネージャーとなり、劇団の財務会計を任されるようになった。
1918年、劇団「群益社」創立に貢献。崔が病没した後は「群益社」を引き継ぎ社長となった。

当時の中国は、清朝から中華民国への動乱期で、旅公演の途中で匪賊に襲われ衣装やお金を奪われたり、戦乱のたびに役者が散り散りになったりした。
だが、それにも挫けず、1937年、劇団「同楽社」を創建、北京市天橋の「天楽戯院」(現「天橋楽茶館」)を拠点に活動を続けた。


張宝華はその父の下、5歳の時より、古徳才(武生)・于徳芳(武生)・袁徳光(武生)・李玉龍(李益善の父、老生)・黄少山(黄月山の子、老生)、劉喜義(武生)・朱連順(武生)・銭富川(武生)・孫毓坤(武生)・銭宝森(武浄)・蓋叫天(武生)等の著名な俳優に個人指導を受けて芸を学び、6歳から舞台に上がり芝居をするようになる。

主に武生(楊派・銭派)と老生(黄派)を専門とし、過去に演じたことのある演目の種類は百十余に及ぶ。

張宝華1952年、劇団は名を「鳴華京劇団」(現「北京風雷京劇団」)と改め、22歳の若さで宝華が後を継いだ。

1954年、北京第一戯曲公演演技賞、1956年北京戯曲大会最高演技賞を受賞するなど、北京を代表する俳優として活躍、文化大革命前までは年間700以上の舞台に立っていた。
文革中は「封建主義者」の罪で舞台を追われるが1972年の名誉回復で団長の座に戻る。 1978年に伝統京劇も復活。

1990年、徽班北京進出200周年記念イベントのため、宣武区政協と宣武区文物文化局が主催した京劇公演に参加し『溪皇庄』・『剣峰山』を上演、これらの作品は黄派芸術の精華ともいえる貴重なもので、各界人士の絶賛を受けた。
1991年退職。芸術に対する功労が認められて区の政治委員に選ばれる。
1993年~1997年まで北京市戯曲学校(現「北京戯曲芸術職業学院」)で指導にあたった。


団長在職中から個人で弟子を取らず、劇団員にも芝居を伝えず資料を残すこともなかったため、長男・張春仲が映画俳優に転向し、次男・張春祥が日本に定住した時に張起の起こした事業は終りと思われた。

が、現在は息子の張春祥が日本で興した京劇団「新潮劇院」芸術監督として関わっている。
張春祥が北京京劇院から独立し日本に基盤を移した後に宝華が口承した芝居は少なくない。

すでに82歳(2012年現在)の高齢となったが、芝居について話すことが大好きで話しだすと昼夜を忘れてしまう。
今は、生きている間に台湾の本土復帰が叶った暁には、黄派戯『蓮花湖』或いは紅生戯『斬車胄』を演じようという希望を抱いている。
(左)張宝華/(右)張春祥
息子・張春祥に演技指導をする張宝華(2012年3月北京にて)