チャン バオファ
張 宝華
中国国家一級芸術家

もと鳴華京劇団団長、風雷京劇団団長、北京戯曲学校教授。


17才で当時北京売れっ子だった女形含霊芝に付いて上京。
効包(付き人)から始め1918年に含から劇団を買い取り「鳴華京劇団」と京劇学校「郡益社」の経営者となった。
旧社会の中国で、旅公演の途中で匪賊に襲われ衣装やお金を奪われたり、役者が散り散りになったこともあるがめげることなく北京市天橋を拠点に活動を続けた。

父のもとで宝華は幼少から著名な役者の個人指導を受け6才から舞台に立ち、10代で座長をつとめた。

立ち回りの役から道化まで幅広くこなす張宝華は人物の描写に定評があり、観客は彼が歴史上の人物を生き生きと演じるのに喝采を送った。

昔の天橋は北京芸能の中心地で数々の劇団や役者が住んでいたが共産党革命に伴い多くは公営化、合併し中国京劇院や北京京劇院の基を作った。
しかし鳴華京劇団は単独で北京市宣武区立の劇団として移行「風雷京劇団」と名を変え、宝華は雇われ団長となり、所有の劇場は没収された。

劇場は「天橋楽茶館」となり現存する。

プロフィール

1930年、北京郊外(現在の通県)生まれ
宝華の父「張起」は光緒16年(1890年)生まれ
1954年北京第一戯曲公演演技賞
1956年北京戯曲大会最高演技賞を受賞
文化大革命前までは年間700以上の舞台に立っていた。
文革中は「封建主義者」の罪で舞台を追われるが1972年の名誉復活で団長の座に戻る。
1978年に伝統京劇も復活。
張宝華は幾つかの伝統京劇を再演し、復活を待ち望んでいた北京市民に忘れえぬ印象を残した。
1991年に退職。
芸術功労から区の政治委員に選ばれる。
団長在職中から個人で弟子を取らず、劇団員にも芝居を伝えず資料を残すこともなかったので、長男が映画俳優に転向し次男が日本に定住した時に張起の起こした事業は終りと思われたが現在は次男張春祥が日本で起こした京劇団に芸術監督として関わっている。 次男春祥が北京京劇院から独立し日本に基盤を移した後に宝華が口承した芝居は少なくない。
1993年〜1997年まで北京戯曲学校で指導にあたった。