「覇王別姫」という演目がつないだ縁
見慣れぬ共演に戸惑いながらも楽しめた
「覇王別姫」と聞いてピンと来なくとも、司馬遼太郎の小説『項羽と劉邦』や四面楚歌、虞美人草といった単語を出せば、ほとんどの日本人が相槌を打つだろう。項羽と虞姫(虞美人)は、それほどまでに日本社会に浸透した存在であり、例えば京劇を初めて見る人にとっても「覇王別姫」は親しみやすい演目といえよう。
能にも「項羽」という虞美人草を主題にした演目があり、そこに項羽と虞姫の亡霊が登場する。600年以上もの昔から続く伝統芸能にも取り上げられる「覇王別姫」は悲哀に満ちたストーリーであり、能の舞台にもふさわしい、日本人好みの演目だ。
この両者の共演はどんな風になるのだろう・・・。2017年5月13日、新潮劇院公演『覇王別姫』。その幕開けを待つ観客たちから、通常の京劇の公演とは違った期待感が伝わってきた。
いざ緞帳が上がった時、舞台にいたのは能面をつけた能虞姫ひとり。この能虞姫は虞姫の成仏できない魂であるだけでなく、舞台上では狂言回し的に、項羽と虞姫が死に至った顛末を語る。これは能の「夢幻能」という回想録的な様式だ。
壇上にてその虞姫の「魂」を演じる、能楽師・西村高夫さんの張りのある肉声が会場に響き渡り、会場全体が能の世界に支配されたようだった。
そう感じた時、それに導かれるかのように京劇の項羽と虞姫が登場。本来の京劇であれば大拍手で迎えられるべきところだが、今回の演目ではそれがなかった。歌舞伎と違って能には拍手をしたり、「掛け声」を入れる習慣はない。観客は終始、静かに見守るだけだ。
賑やかな京劇の音楽が鳴り始め、能虞姫が舞台からいない時でも観客は静かだった。拍手したり、「好」(ハオ!)という掛け声が入りそうなところでも、それが出ない。
序盤から中盤にかけては、西村高夫さんが演じる能虞姫の存在感が強すぎて、観客が「京劇モード」へと転換するまで、かなり時間がかかった印象だ。これは京劇と能が共演するという稀有な舞台に対し、観客が「慣れていない」からで、ほとんどの方が新鮮な戸惑いを抱きつつも楽しんでいた様子だった。
事前の触れ込み通り、京劇の「動」に対し、能の「静」という対比が面白い部分ではあったが、後者の「静」の持つ独特の緊張感は「動」である京劇を呑み込み兼ねないほどの「魔力」を感じた。
一方で、新潮劇院団長の張春祥さんは力強く、悲哀に満ちた項羽を演じきった。
「力は山を抜き、気は世を覆う(中略)虞や虞や、汝を如何せん」、いわゆる「垓下の歌」は項羽の愛と無念さを表すもの。春祥さんの少し高めの声が、情感をともなって響いた。
ようやく大拍手とともに元気な「好!」の掛け声が沸き起こったのは、終盤に虞姫が剣舞を行なうシーン。剣舞は虞姫を演じた張桂琴さんの十八番で、以前に明治大学で行われた京劇イベントにて「覇王別姫の剣舞」を披露されたのを見て魅了されたのを思い出した。今回は本来の形である「覇王別姫」の中での剣舞で観客を京劇の世界へ引き込んだ。虞姫の自害後、能虞姫が現れ、2人は永遠に終わることのない冥界を歩み続ける・・・というところで閉幕。能が持つ「静の魔力」に、いささか圧倒されながらも、京劇による「動の魅力」を存分に堪能することができた。
在日の京劇団として、20年以上も活動を続けてきた新潮劇院だからこそ実現できた、日中伝統芸能の共演。この新たな試みを目の当たりにできたことは僥倖だった。また、コラボを引き受けられた能楽師・西村高夫さんの英断にも敬意を表したい。
京劇と日本の伝統芸能の組み合わせとしては、どちらかといえば歌舞伎の方がイメージが近く、通じる部分もあるように思う。「覇王別姫」という演目がつないだ縁でもあるが、能とのコラボはまさに意表を突かれた形。両者の共演ならではの面白みが随所に感じられた。伝統を大切にしながらも、「新潮」の名にふさわしい新潮劇院の活動、今後も注視していきたい。
歴史文筆家 上永哲矢 |